POINT映画「八日目の蝉」は、子供の頃の記憶・母親の愛情の大切さなど、「主人公『恵理菜』の心情」を通して、「アダルトチルドレンとは何か?」を知ることができます。
心理カウンセラーの寺井です。
映画「八日目の蝉」は、子供の頃に誘拐され、心に「トラウマ(心的外傷)」を負い、「産みの親」と「育ての親」との間で苦悩することになった主人公「恵理菜(えりな)」の心情を描いた映画です。
そして、主人公「恵理菜」のように、子供の頃、心に傷を負ったことで、大人になっても生きづらさを感じ続けている人を、心理学では「アダルトチルドレン」と言います。
この記事は、「映画のあらすじ」「映画の感想」「主人公『恵理菜』の心情」に触れながら「アダルトチルドレンとは何か?」について説明しています。
映画「八日目の蝉」あらすじ
不倫相手の子供を妊娠し、子供を産むことをあきらめた経験を持つ「希和子(きわこ)」は、不倫相手=田中哲司さん演じる「丈博(たけひろ)」の自宅に忍び込み、正妻=森口瑤子さん演じる「恵津子(えつこ)」の赤ちゃん(のちの「薫(かおる)」であり「恵理菜(えりな)」)を誘拐します。
「希和子」は、この赤ちゃんを「薫(かおる)」と名付け、誘拐犯として逃亡生活を続けながらも、大きな愛情を注いで懸命に育てていきます。
「希和子」と「薫」は、警察の捜査の手を逃れるため、途中、宗教団体「エンジェルホーム」に身を寄せ、そこで知り合った「久美(くみ)」の協力を得て「小豆島」に移り住みます。
そして、幼い「薫」は、母「希和子」が自らを誘拐した誘拐犯であることなど知る由もなく、「希和子」をとても信頼し、「希和子」と「薫」の間には、素晴らしい「愛着関係」が形成されていきます。
とはいえ、「希和子」と「薫」の親子関係は、誘拐事件の犯人とその被害者という関係でもあり、二人はついに警察に発見され、それ以来、「希和子」と「薫」は離れ離れになってしまいます。
こうして、「希和子」は警察に逮捕されてしまい、「薫」は、二度と、母「希和子」と会えなくなってしまいます。
そして、「薫」は、大好きだったお母さん「希和子」との間を突然に引き裂かれたことによる大きなトラウマを心に抱えたまま、産みの親である「丈博」と「恵津子」の元へと戻り、「恵理菜」と名前を変え、新しい家族との生活を始めていくのですが…
ちなみに、この記事は「映画「八日目の蝉」の感想『後編』」です。
『前編』をお読みでない方は、先に以下の記事をお読みください。
それでは、以下「映画「八日目の蝉」の感想『後編』」をお読みください。
自分を好きになれない「アダルトチルドレン『恵理菜』」の気持ち
大好きだった母「希和子」との突然の別れから時が流れ、かつて「薫」と呼ばれた子供は「恵理菜」という名前に変わり、産みの親である「恵津子」の元で、クールで飄々とした大人に成長していました。
そして、父「丈博」と同じように、「恵理菜」も、妻子ある男性と不倫をしていました。
大人になった「恵理菜」の表情や言葉からは、心にどんより漂う苦しさ・疲労感など、生きづらさようなものが感じられます。
それは、新しい環境で生きていくために、過去の自分「インナーチャイルド『薫』」の存在を、「恵理菜」が抑え込んでいることを意味しています。
「恵理菜」のルーツとは?
「三つ子の魂百まで」という諺がある通り、人間の人格の形成には、幼少期(おおよそ6歳まで)の記憶が大きな影響を与えます。
このように、人間が幼少期の記憶に沿って無意識に生き方を決めていくことを、「交流分析」という心理学では「人生脚本」と言います。
人生脚本とは、エリック・バーンが提唱した心理学理論です。幼少期に自分自身の人生脚本を描き、その通りになるとされています。人生脚本の大部分は親からのメッセージにより決定されます。無意識のうちに生き方を決め、それに従い行動するということです。
引用元:人生脚本とは
「恵理菜」の場合、幼少期を共に過ごした相手は、産みの親である「恵津子」ではなく、「恵津子」のもとから「恵理菜」を誘拐し育てた「希和子」です。
よって、「恵理菜」の人格形成に大きな影響を与える「ルーツ」とは、幼少期をともに過ごした「希和子」との記憶、つまり「恵理菜」が「薫」と呼ばれていた頃の記憶ということになります。
「恵理菜」が生きづらさを感じる理由
本来であれば、人は「子供の頃の温かい記憶」を基礎として、大人へと成長していきます。
ですが、「恵理菜」の場合、自らの人格の基礎となる「子供の頃の温かい記憶」を抑圧・否定しながら生きなければなりませんでした。
理由は、「恵理菜」が「子供の頃の温かい記憶」を共有したのは「希和子」であり、その「希和子」は誘拐犯として逮捕されてしまい、それ以来、周囲の大人たちは、「希和子」を「悪い人」として扱うようになったためでした。
子供の頃の「恵理菜」すなわち「薫」にしてみれば、今まで「大好きだったお母さん」が、突然、「悪い人」に変わってしまったため、「希和子」を好きなままでいることは、「悪い人」を好きになることになり、「悪い人」を好きでいると、自分も悪い人になってしまうと考えたからです。
とくに、産みの親である「恵津子」は、「恵理菜」が少しでも「希和子」を連想させる言動をするとヒステリックを起こし、そのたびに「恵理菜」は悲しい想いをしていました。
なので、「恵理菜」は、産みの親である「恵津子」と上手くやるためにも、「希和子」との「子供の頃の温かい記憶」すなわち、もう一人の自分「薫」の存在を抑圧・否定しながら生きるようになっていきます。
自分は幸せになってはいけない…という思い込み
大人になった「恵理菜」も、ときには喜んだり楽しんだり、「幸せ感」を感じようとしたときもあったでしょう。
でも、「恵理菜」はそのたびに、「幸せ感」のルーツである「薫」の存在を感じてしまい、そのたびに自己嫌悪し、そのたびに「薫」の存在を抑圧・否定しながら生きなければなりませんでした。
このように、自らの感情を抑圧したり否定してしまう考え方のことを、交流分析という心理学では「禁止令」と言います。
禁止令とは心理学者エリックバーン博士によって開発された自己分析法で、文字通り「〇〇してはいけない」という「禁止」の「命令」のことです。…(中略)…幼いころに親などの養育者から否定的・禁止的な命令や態度を繰り返し受けることで、自らの思考や行動の制限を課してしまうものです。
このように、「恵理菜」は、産みの親である「恵津子」たち家族との関係を安定させるため、いつしか、「希和子との幸せな時間を思い出してはいけない…」「希和子と幸せな時間を過ごした『薫』を思い出してはいけない…」「自分は幸せになってはいけない…」という「禁止令」を、自らの心に課したのかもしれません。
また、「人生脚本とは何か?」「禁止令とは何か?」については、以下の記事で詳しく説明していますので、興味のある方は参考にしてください。
人間は、なぜか、父親や母親と同じようなことを繰り返す…
父親「丈博」と育ての親「希和子」が不倫関係であったのと同じように、大人になった「恵理菜」も、「岸田」という妻子ある既婚男性との不倫関係を続けています。
そして、これもまた「丈博」と「希和子」と同じように、「恵理菜」も、不倫相手である「岸田」の子供を妊娠します。
かつて、不倫相手の子供を妊娠した「希和子」にとって「丈博」が頼りにならない存在であったの同様、「恵理菜」にとって「岸田」も頼りにならない存在でした。
そして、産みの親である「恵津子」に相談すると、「恵津子」は「産まないように…」と「恵理菜」に迫ります。
このように、人間の人格の形成には、幼少期(おおよそ6歳まで)の記憶によって形成される「人生脚本」が大きな影響を与えています。
そして、今回の「恵理菜」のように、自分の親「丈博」や「希和子」と同じような生き方を知らず知らずに繰り返す心の働きを、心理学では「世代間連鎖」と言います。
世代間連鎖とは、親から子へ世代を超えて伝わるもののこと。わかりやすいものでいえば、虐待や貧困などの問題である。しかし、実際はそういった大きな問題だけではなく、親から子への愛情のかけ方や接し方も、連鎖する。
引用元:世代間連鎖を止めるの、やめた
また、「世代間連鎖」については、以下の記事で詳しく説明していますので、興味のある方は参考にしてください。
自分を好きになれない、子育てに自信が持てない
ですが、「恵理菜」は、育ての親「希和子」と違って「恵津子」の圧力に屈せず、自らの意思で子供を産むことを決断します。
「恵理菜」は、どうして?「子供を産む…」という決断をしたのでしょう。
実は、「恵理菜」は、一度、「子供を産まない…」と考えました。
ですが、産婦人科で赤ちゃんのエコー写真を見たとき、幼いころ、小豆島で「希和子」と見た、海や山などの美しい光景がよみがえり、「この美しい光景をお腹の子にも見せてあげたい」と感じたのです。
とはいえ、その決断の裏には、「私は、自分のことを好きになれないんだから、自分の子供を育てていく自信が持てない…」という不安な気持ちも隠れていたのかもしれません。
本来、人間の子育てとは、前述の「世代間連鎖」によって、子供の頃、自分が親にしてもらえた子育て方法を、自分の子供にしてあげようとします。
なので、「恵理菜」の場合、優しかった「希和子」にしてもらえた母性と愛情あふれる子育て方法を、そのまま自分の子供にしてあげれば素晴らしい子育てとなります。
ですが、「恵理菜」は、「希和子」と離れ離れになったのちは、産みの親である「恵津子」たち家族との関係を安定させるため、「希和子との幸せな時間を思い出してはいけない…」「希和子と幸せな時間を過ごした『薫』を思い出してはいけない…」という「禁止令」を、無意識に自らの心に課していたです。
なので、「恵理菜」が子供を産み育てるためには、自分は「希和子」に愛されて幸せだったという「薫」の存在を認める必要があるのですが、「恵理菜」としては、産みの親である「恵津子」たち家族との関係も大切であるため、「薫」の存在を認めたい気持ちと、「薫」の存在を認めたくない気持ちが、せめぎ合っていたのかもしれません。
また、「子育てに自信が持てない…」と感じる心理状態については、以下の記事でも詳しく説明しておりますので、興味のある方は参考にしてください。
傷ついたインナーチャイルドを抱えた「アダルトチルドレン」
このときの「恵理菜」のように、「毒親」「機能不全家族」「トラウマ(心的外傷)」などの影響によって、子供の頃、心が傷つき、大人になってもその影響を受け続けている人を、心理学では「アダルトチルドレン」と言います。
アダルトチルドレン(AC)とは、自分は子ども時代に親との関係で何らかのトラウマ(心的外傷)を負ったと考えている成人のことをいいます。自己認識の概念であり、医学的な診断名ではありません。
なので、「恵理菜」とは、傷ついた記憶「インナーチャイルド『薫』」を抱えた「アダルトチルドレン」と言えます。
また、「アダルトチルドレン」については、以下の記事で詳しく説明していますので、興味のある方は参考にしてください。
カウンセラー役「千草」との出会い
「恵理菜」は、「希和子」というもう一人の母親にたくさん愛されて幸せだったという、「薫」の存在を認めることができず、子供を産み育てることに大きな不安を感じています。
正確に表現すれば、成長した「恵理菜」にしてみれば、「希和子」と過ごした「薫」の存在は、認めたくても思い出せない、おぼろげな遠い記憶となっていたのかもしれません。
自分の内面に、かすかに「薫」の存在は感じるのだけれど、はっきりと思いだすことができない。
「恵理菜」にとって、インナーチャイルド「薫」は、自分の人生に大きな影響を与えているものの、思い出すことができない「あいまい」な存在になっていました。
そんなとき、あることをきっかけに、事態が大きく動き出します。
それは、長い間、「恵理菜」が抑え込んできたもう一人の自分=「薫」の幼馴染み=小池栄子さん演じる「千草(ちぐさ)」との再会です。
「薫」を知る唯一の存在「千草」との再会
「恵理菜」が「千草」と出会ったのは、「恵理菜」が「薫」と呼ばれていた頃で、「希和子」と一緒に逃亡生活を送っていた頃にさかのぼります。
「希和子」は逃亡生活の途中、警察やマスコミと距離を置ける安全基地として、世間と距離をおき、集団生活を送る宗教団体「エンジェルホーム」に身を寄せます。
この頃、「千草」も「エンジェルホーム」に身を寄せており、子供同士、「千草」は「薫」とよく遊んでいたので、「薫」のことを覚えていました。
「千草」は、大人へと成長したのち、フリーライターとして活動していました。
そして、かつて自らも身を寄せていた「エンジェルホーム」についてや、エンジェルホームで知り合った「恵理菜」=「薫」の誘拐事件についての本を出版するための取材として、「恵理菜」のもとを訪れたのでした。
「千草」と再会したとき、「恵理菜」にとっての「薫」は、「思い出してはいけない存在」でした。
でも、「千草」にとっての「薫」は、子供の頃を共に過ごした「温かい存在」だったのです。
そして、「千草」との再会がきっかけで、「恵理菜」のなかで、「薫」と「希和子」に対する温かい気持ちが芽生え始めます。
本当の自分を取り戻す
やがて「恵理菜」は「千草」に誘われて旅を始めます。
それは、「希和子」との思い出を探し求める旅、「薫」というもう一人の自分を探し求める旅、すなわち、「本当の自分を取り戻す旅」です。
旅が進むにつれて、「恵理菜」の脳裏には、今まで抑え込んできた子供の頃の記憶=「薫」の存在がだんだんと断片的に蘇ってきます。
そして、「恵理菜」は、かつて「薫」が感じた「希和子」との温かい記憶を思い出し始めるのです。
「恵理菜」は、こうして旅を続けながら、「希和子との幸せな時間を思い出してはいけない…」「希和子と幸せな時間を過ごした『薫』を思い出してはいけない…」という「禁止令」を、まるで、春の雪解けのようにゆっくりと解いていき、徐々に本当の自分を取り戻していきます。
「千草」というカウンセラーがいなければ、本当の自分を取り戻せなかった
このように、子供の頃の記憶とは、人間の人生に大きな影響を与えます。
ただ、子供の頃の記憶とは、遠い昔の記憶であり、長い時間が経過しているため、例え、自分のことであっても、自分一人では思い出しづらいものです。
そんなとき、子供の頃の記憶を思い出していくお手伝いをしてくれる人が「心理カウンセラー」であり、心理カウンセラーの協力を得ながら、子供の頃の記憶を思い出していく作業が「心理カウンセリング」です。
そういった意味では、子供の頃の記憶=「薫」の存在を思い出す手伝いをしてくれる「千草」は、「恵理菜」にとって「心理カウンセラー」であり、「薫」を思い出すための「千草」との旅は、「恵理菜」にとって「心理カウンセリング」の役割を担っていると言えます。
また、「心理カウンセリングとは何か?」については、以下の記事で詳しく説明していますので、興味のある方は参考にしてください。
母「希和子」からの愛情と感謝を受けとる…
「恵理菜」は「千草」と旅を続けながら、「薫」の存在を抑圧・否定する「禁止令」を緩め、徐々に「薫」の存在を受け入れ始めていました。
そして、「恵理菜」はまるで引き寄せられるように、「薫」と「希和子」が離れ離れになった場所、「恵理菜」が「薫」ではなくなった場所、すなわち「小豆島」にたどり着きます。
最初で最後の「二人の家族写真」
「恵理菜」は「千草」と共に小豆島をめぐり、「薫」と呼ばれていた頃の記憶をだんだんと思い出していきます。
そして、小豆島の港でさまざまな思い出を思い出していると、「恵理菜」はふらふらと歩きだし、とある「写真館」へと入っていきます。
その写真館は、「薫」が「希和子」と離れ離れになる直前、最初で最後の「二人の家族写真」を撮影した場所でした。
誘拐犯として逃亡中の「希和子」にとって、自らを写真に撮影することは、居場所を知られてしまう危険行為です。
ですが、「希和子」は警察の捜査の手が迫っていることを悟り、警察に逮捕される前に、自らの愛情をなんとか見える形で「薫」に残してあげたいと願い、危険を承知で「薫」との「二人の家族写真」を撮影したのです。
でも、この写真を撮影した直後、「希和子」は逮捕されてしまい、「薫」も「恵理菜」と名前を変え、新しい環境で生きていくことになりました。
結果、「二人の家族写真」は、「希和子」の手元にも「薫」の手元にも渡ることがありませんでした。
「希和子」からの最大限の愛情表現を受け取る
「二人の家族写真」は、持ち主の手に渡ることなく、十年以上の時が経ってしまいましたが、数年前、刑務所を出所した「希和子」が写真を撮りに来たことを、写真館の店主の話によって「恵理菜」は知ります。
また、店主は、当時、「希和子」と「薫」の雰囲気からなにかを察したのか、「二人の家族写真のネガ」を大切に保管してくれていたのです。
そして、店主は、突然に訪れた「恵理菜」に驚く様子もなく、多くを聞かず、事情を察して、長いあいだ大切に保管し続けた「二人の家族写真」を快く現像してくれるのです。
まるで「恵理菜」の記憶が鮮やかによみがえるように、「二人の家族写真」も鮮やかによみがえります。
「恵理菜」は写真を見て、離れ離れになって以来、久しぶりに、優しいお母さん「希和子」と、子供の頃の自分「薫」が、仲良さそうに寄り添って並ぶ姿を目にします。
「希和子」にしてみれば、自らのエゴによって「薫」を巻き込んでしまったことは違いありません。
それでも、「希和子」は、「薫」と「恵理菜」に対して「ごめんね…」という「謝罪」ではなく、「ありがとう…」という「感謝」を届けたかったのです。
その瞬間、「恵理菜」の心には、優しく温かな気持ちが一気に湧きあがり、よくわからないまま抑え続けるしかなかった、自らの愛のルーツ「薫」の存在を、「恵理菜」はようやく取り戻すことができました。
その写真は、十年以上前の「希和子」から、母親になろうとしている「恵理菜」に向けたの最大限の愛情表現だったのです。
母親からの愛情を受け取り、母親になる
最後に、写真館を出て、「恵理菜」は、母「希和子」との記憶をすべてを思い出します。
人は、自分は愛されていたと納得して、初めて人を愛することができる
警察の捜査の手から逃れるため、小豆島から船で旅立とうとしていた夜、「希和子」は、ついに警察に発見されます。
そして、誘拐犯として警察に連行されながらも、大声で、「その子はまだ食事を取っていません!よろしくお願いします!」と、お腹をすかせた自分のことをギリギリまで思いやる優しい母「希和子」の姿を、「恵理菜」はハッキリと思い出します。
「やっぱりお母さんは優しい人だったんだ!」
「私にとって、お母さんは悪い人じゃなかったんだ!」
「お母さんは、私をとても愛してくれていたんだ!」
「私も、お母さんをとても愛していたんだ!」
「私は、お母さんを好きでいていいんだ!」
「お母さんが私を愛してくれたように、私は私を愛していいんだ!」
「お母さんが私を愛してくれたように、私はお腹の子を愛してあげればいいんだ!」
そして、「恵理菜」は、新たに授かったお腹の子に対して、「希和子」が感じさせてくれた温かい愛情を感じます。
「どうしてだろう?」
「まだ、顔も見ていないのに…」
「私、もうこの子が好きになっている…」
このとき「恵理菜」は、自分が「希和子」に愛されていたことを実感できたことで、自分も「希和子」を大好きだったこと、自分も自分を好きになっていいこと、自分も人を愛する権利があること、そして、自分も母親になる資格があることを、ようやく自己承認できたのです。
そして、一度は「産まない…」とさえ考えたお腹の子が、とても愛おしく感じられ、生まれてくることが待ち遠しくも感じられるようになったのです。
このように、遠い昔から感じ続けているモヤモヤとした感情をスッキリと納得して終わらせていくことを、「ゲシュタルト療法」という心理学では「未完の完結」と言います。
未完の完結:ゲシュタルト療法では、「過去の未完の出来事は、ゲシュタルトとして完成されていないモヤモヤとして残っていて(「抑圧」という精神分析用語は用いられない)それを意識化させ、完結することで症状は無くなる、という。フロイトは、「抑圧した過去を知る」ことで症状がよくなると言った。
また、今回の「恵理菜」のように、「『未完の感情』を『未完の完結』へと導く流れ」については、以下の記事で詳しく説明していますので、興味のある方は参考にしてください。
「恵理菜」と「薫」がひとつになり、新しい命と一緒に新しい人生が始まる
突然、離れ離れになって、「恵理菜」は、新しい環境で生きていくために、「希和子」との素晴らしい「愛着関係」を否定しなければならなくなってしまった。
子供は1人では生きていけません。
子供であった「薫」が生きていくためには、とにかく、周囲の大人の意見に従い、優しい母「希和子」を「悪い人」として否定して生きるしかなかった。
でも、「薫」は「恵理菜」という立派な大人に成長し、もう周囲の大人の意見に従わなくても、一人で生きていけるようになった。
そして、本当の自分を取り戻すために、勇気をもって自分の愛のルーツと向き合い、「希和子」にとても愛されていたことを思い出し納得することができました。
「希和子」に愛されていたことを実感できた「恵理菜」は、「希和子」に愛されていた「薫」を好きになることができるようになり、「希和子」に愛されていた「薫」を好きになることができた「恵理菜」は、「希和子」が愛してくれたように、自分の子供を愛せるようになりました。
こうして、「恵理菜」と「薫」がひとつになり、新しい命と一緒に新しい人生が始まっていきます。
まとめ
さて、ここまで、映画「八日目の蝉」の「主人公『恵理菜』の心情」に触れながら「アダルトチルドレンとは何か?」について説明してきました。
このように、「アダルトチルドレン」とは、決して障害や病気や遺伝といった問題ではなく、自分一人の力ではまだ生きていけない子供時代、親や周りの大人に見放されないよう、懸命に生き抜いた過程で身に付けた「性格上の癖」「思考・行動の習慣」のようなものです。
「恵理菜」の場合、自分が少しでも「希和子」を連想させる言動をしてしまうと、「恵津子」がヒステリックを起こしてしまうため、それがとても悲しかったのでしょう…
なので、「『恵津子』がヒステリックを起こさなければ自分も悲しい想いをしなくて済む、だから、少しでも悲しい想いをしないで済むように、『希和子』のことや、もう一人の自分『薫』の存在は思い出さないようにしよう…」と「恵理菜」は考えるようになったのでしょう。
このように、「アダルトチルドレン」の心の内には、「家族を守りたい…」「家族と穏やかに過ごしたい…」という大切な想いが隠れています。
そして、「恵理菜」のように、心の内に隠れている「遠い昔の大切な気持ち」と向き合い、気づき、満たすことで「アダルトチルドレンの克服」は可能となります。
ちなみに、この記事を書いている私=心理カウンセラー寺井も、かつては「アダルトチルドレン」であり、「アダルトチルドレンを克服した経験を持つ心理カウンセラー」です。
最後に、私=寺井の「アダルトチルドレン克服体験談」を以下に紹介しますので、興味のある方は参考にしてください。
なお、本記事に関する関連情報は、以下のページでもまとめていますのであわせて紹介します。
関連情報まとめページ
以上、「映画『八日目の蝉』の感想②:自分を好きになれない「アダルトチルドレン『恵理菜』」の気持ち」という記事でした。